君は何と闘っているのか?

学問に関与していると、同じような領域で活動する知り合いが身近にできます。吹奏楽に関与していると、同じ楽器を演奏する知り合いが身近にできます。曲を作っていると、同じく作曲を趣味にしている知り合いが身近にできます。何かに打ち込んでいると、似たようなことをやっている他人と接点が生じることはしばしばあるようです。

次のようなことをよく耳にします: 「同じ研究室の〇〇はもう△△ジャーナルに出していて負けたくない」「○○には楽器で負けたくない」「〇〇よりも伸びる曲を作りたい」「〇〇だけには試験で負けたくない」などなどなど。 私はこういった発言がどのような機序で出てくるのかわからず、いつも「?」となります。その、偶然身近にいただけの〇〇さんをベースラインにして自分を評価し、一喜一憂することの意味がわかりません。他人と自分とで比較するところまではわかるものの、それで自分が(自分の主観的な判断によると)そいつより下回っていたとしてそれが何だというのか・・・・・。

話を絞るために、こと学問について言えば、学問を推進するということは別に私(やあなた)が必ずしもやらなければならないことではない。理論や観察が発展することに、「それを誰がやったか」は本質的には関係が無いように思うのですが、どうやら、(周囲を見ていると)そうではないのかもしれません。例えば誰かが自分より先に、自分がまさに取り組んでいたテーマで優れた成果を上げたとして、それはその学問にとってとても良いことでは無いんですかね。「先越されたー」みたいな反応は(特に人工知能領域とかでは本当によく遭遇するのですが)、学問が育つことを第一に考えているならば、そもそも出てこないような気がします。

学問の発展ではなく、「研究を手がかりに学界で身を立てること」を目標にするなら、また別の話かもしれません。

音楽をやるにしても、音楽を楽しむために演奏なり何なりやっているなら、他人はあまり関係ないような気がします。自分がそれを楽しめているかどうかが重要なのではないのですかね。「いや、ひとよりも上手くなったという実感がなければ楽しくないのだ」と思うならば、(とっても勝手な憶測ですが)それって真に求めているものは「勝利した実感」であって、その道具として音楽を使っているだけではないのですか。

勉強でも音楽でもゲームでも何でもいいから優越感を感じたくて、そのために、学問や音楽やゲームやスポーツなどの活動を、そして他人を利用しているのならば、確かに、誰かよりも劣っているという事実は不快であり、打破したいものなのかもしれません。